こういう人間です
盛岡市在住。ライター。
性格偏屈。趣味はないが嫌いなものはない。 20年余りの都会暮らし、 10年余りの山暮らしを 経て現在6年目のニュー タウン暮らし。 いまいるところがいつも いちばん好きなところ。 メールはこちらへどうぞ 以前の記事
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叔父が亡くなった。 葬儀の日、6時半に家を出て江刺に向かった。 4号線を花巻まで下り(本当は上りっていうのかな)、 花巻から北上川を渡って車の少ない県道を通ったら、 うろ覚えで不安だった叔父の家の前に一発でたどり着いた。 叔父は大正6年生まれだから、天寿まっとうと言ってもいい。 ぼくは小学生のころ、夏休みの半分は叔父の家で過ごしたから、 思い出はたくさんある。 いちばん忘れられないのは、靴職人だった叔父が仕事場で小さな椅子に座り、 材料の皮を切り抜いたり縫ったり、靴型に合わせて仕上げている様子だった。 子供心に面白くて、そばにしゃがみこんで見ていた。 叔父の葬儀は近所の寺で行われた。 この寺の葬儀には何度か出たことがあるが、とても誠実な感じがして好きだ。 檀家衆が御詠歌を歌う。 参列者一同で般若心経を読む。 真言宗の寺だが、境内や墓地を見れば、 檀家の人たちが本当に尽くしているのがわかる。愛宕山興性寺という。 叔父の家から寺まで葬儀の列は歩いて行く。 ぼくは遺影を持たされた。大役だなと思ったが嬉しかった。 家のすぐ前に保育園がある。 園児たちが全員、葬列を見送ってくれた。 遺影に「おじいちゃん、さよなら」と声をかけてくれた子どもがいた。 どの子も一所懸命に手を合わせていた。 叔父はこの子たちととても仲良しだったらしい。 忌明けの席で、二十歳くらいの女の子がお別れの言葉を読んだ。 4歳のときに温泉で叔父と知り合い、とても可愛がってもらって家族ぐるみの 付き合いになった。 誕生日にはかならず電話をくれたり、贈り物をしてくれた。 電話や手紙のやり取りもしょっちゅうあった。 「今日が最期の手紙です」と彼女が声を詰まらせたとき、 いつも目をパッチリ開いて穏やかに話しかけてくれた叔父の顔が不意に浮かんだ。 彼女のお別れの言葉はとても良かった。 江刺から帰るとき、親戚に「わかりやすい道があった」と言ったら、 「それは川街道だ。いい道だ」と言われた。 細い道でスピードは出せないが、めったに信号もなく、 ときおり左に沿って北上川が流れている。 ぼくはずっと叔父の記憶を掘り起こしながら運転していて、 あることを思い出した。 あれはいつだったのか。 叔父に頼まれて出来上がった革靴を離れた町の大きな靴屋に運んだ。 叔父の家の前からバスに乗り、その靴屋の近くで降り、 帰りには靴の材料を渡されて同じ道をバスで戻った。 叔父はこのお使いに、バス賃のお釣りをお小遣いだと言ってぼくにくれた。 北上川に沿った道で、どこかで橋を渡って町中に入ったんだ。 叔父がつくった大切な革靴を、一人で緊張しながら胸に抱えて、 バスの窓から見えた大きな川を思い出した。 あの道が、いま運転している川街道だったんだ。 叔父の葬儀の日に、偶然、入り込んだ道があのときの道だったんだ。 そう気がついたとたんに、 涙もろいぼくは慌てた。 たくさんの記憶が甦った一日。 叔父に感謝したい。温かな人だった。
by northend
| 2005-09-09 22:26
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