こういう人間です
盛岡市在住。ライター。
性格偏屈。趣味はないが嫌いなものはない。 20年余りの都会暮らし、 10年余りの山暮らしを 経て現在6年目のニュー タウン暮らし。 いまいるところがいつも いちばん好きなところ。 メールはこちらへどうぞ 以前の記事
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ニュータウンは土日が夏祭だった。 大きな公園に夜店がたくさん出て、この町のどこにこんなに若いモンがいたのかと 驚くぐらい、人が集まってくる。 しかしぼくは、こういう祭にはまっ ったく興味がない。 見物するのはせいぜい花火ぐらいだが、雨模様だったから茶の間の窓から見た。 山暮らしのころ、祭にはディープに関わってきた。 本番はもちろんだがその準備があった。 朝から祭礼の幟を立て、幕を貼り、拝殿の床を拭く。 松を切り、注連縄を飾り、お供えを運ぶ。 餅をつき、お神酒を運び、米や塩を盛る。 神楽の演目が決まれば稽古に明け暮れ、夜店の準備もあった。 疲れと寝不足で本当にクタクタになったが、 祭礼の儀式一切が済んで神輿が本殿に納まり、 それから社務所で飲むお酒は本当に美味しかった。 西日が差し込む中で、神社の総代たちが賽銭を数えている。 それを横目に飲む茶碗酒というのは、なんだか無頼で気持ちいいのだった。 10年余り、そんな気持ちのよさを味あわせてもらった。 でも祭が近づくころは、いつも憂鬱だったなあ。 「ああ、もうすぐお祭か」と声を掛け合う村の人たちもみんな、 溜め息をついていた。 ぼくは神楽衆の一人であり、おまけに自治会のまとめ役みたいなことも やっていたから、祭が近づくと毎晩のように集まっては稽古と打ち合わせだった。 おカネの割り振り、人員の割り振り、道具や材料の手配、交渉、搬入・・ 稽古の場所も当日の舞台に移り、衣装も兜も面のすべてつけて通し稽古。 深夜に帰宅してもあれこれ心配で眠れず、祭当日には最悪のコンディションだった。 それが毎年のことだから、「ああ、もうすぐお祭か」と溜め息が出たのだ。 あのころ、「いつかこの祭を見物したい」と本気で願った。 宵宮の神楽は篝火に浮かぶ拝殿の渡り舞台で舞われる。夕暮れの刻に始まり、 真夜中まで続く。それをゆるゆると茶碗酒飲みながら見物できたら どんなにか幸せだろう。 翌日の例大祭も杉木立の中で見物できたらどんなに幸せだろう。 開山1200年の古い神社が伝える儀式は荘厳で、川の水を蓬の葉に含ませて 神輿を洗うのが慣しだった。在郷の獅子踊りも一堂に集まって神輿を囲む。 祭は神事と芸能がすべてで、その神事と芸能を楽しむために飲み食いの店が出る。 芸能もまた神への奉納だから、飲み食いも神への饗応ということになる。 一つ一つの動作に意味がある。 ぼくがニュータウンの祭が嫌いなのは、町内神輿が出るからだ。 そもそも神社もないのだから、こういうものは要らない。 神輿はどんなものであれ、一つでいい。 子どもに神輿の経験をさせたいという人もいるが、子どもは大人の神輿に 憧れていつか自分も担いでみたいと思えばいい。そう思わせる神輿が 一つあればいいんだ。 それから芸能がない。ヨサコイソーランはあるけどあれはただの振り付けで、 祭をイベントに格下げしてしまう。そもそもイベントじゃないかと言われたら 納得する。だったらただの盆踊りにすればいい。さんさ踊りがあるじゃないか。 結局、いじけているだけなんだろうな。 隅々に神を感じ取る祭に、ずいぶん深く関わってきた反動なんだろうな。 あるいは見物するだけじゃつまらないんだろうな。 厭だ厭だと思いながら終わればあれだけの充足感を味わっていた。 祭は見物より自分が仕切ったほうがはるかに面白いのは当然なんだろうな。 明日はみんなで町に出てさんさ踊りの見物予定。 うーん、やってみたい気もするんだけどなあ。今日は気弱だ。
by northend
| 2007-08-01 21:32
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