こういう人間です
盛岡市在住。ライター。
性格偏屈。趣味はないが嫌いなものはない。 20年余りの都会暮らし、 10年余りの山暮らしを 経て現在6年目のニュー タウン暮らし。 いまいるところがいつも いちばん好きなところ。 メールはこちらへどうぞ 以前の記事
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
先月から森まゆみさんの『円朝ざんまい』という本を読んでいてこれが なかなか終わらない。面白い本は近ごろ時間がかかってしまう、昔は逆だった。 『円朝ざんまい』には円朝の語り口が随所に挟み込まれていて、 その部分を読むときにはつい姿勢正しく声に出して読んでしまう。以前に 「声に出して読みたい○○」という本が出たとき、「本は黙って読め」と 怒ってた作家がいて、まったくだと大いに共感したのだが『円朝ざんまい』 はそうもいかない。森まゆみさんはたぶんそうしてほしいから円朝の語りを 挟み込んでいる。その部分、声に出して読むと、この本じたいが読んで 楽しいのだ。 それはいいが、きっかけは何であれ一つ面白いのにあたるとその周辺の本を 一息に集めてしまって読むのに半年も1年もかかってしまう。 どうせ仕事が忙しくて遊びにもいけないんだ、いいんだ、 いいんだオレは、みんなどこぞなり好きなところにいってくれとイジケてる。 というわけで本家本元三遊亭円朝作『怪談牡丹燈籠』を読み始めた。 これは終わらない。蒸し暑い夜には枕元に手放せない一冊。 森まゆみさんには『谷中スケッチブック』という懐かしい一冊があって、 その本もこの際だから読んじゃえと読んだら、ああ、あの上半身裸、 黒っぽい半ズボンに短靴、幟には筆で書かれた何やら文字があって 本人は顔も上半身も真っ黒に日焼けし、会う人誰にもワハハワハハと笑いかけ 薄着は健康のもと、笑いは幸せのもとと豪快に説いていたあの裸の怪人は 谷中とは道一本隔てた西日暮里に住んでいたとわかった。 ぼくは当時、露伴五重塔の跡地の小公園に面したオンボロアパートの4畳半を 借りていて、いまでいうフリーターのような生活をしていた時期もあった のだけれど、年に何度か毎朝しばらく、とんでもない時間にワハハワハハの 大きな笑い声が公園から聞こえてきた。「うるせーなあ、バーロ」とか思う のだがそれが毎朝続くと、どうせ目が覚めたんだから起きるかという気に なって一口コンロで鍋のお湯を沸かしてコーヒーを飲んだっけ。 ワハハワハハで一日が始まるんだから少しも悪いことではない。 あの裸のおじさんは日暮里駅の改札もワハハワハハといつも素通りで、 国鉄全線フリーパスだったというけど本当かしらと当時は思ってたが、 新橋だの品川だので出会うとつい、会釈を返してしまうのだった。 その裸のおじさんのことを森まゆみさんも書いていて、生まれは盛岡の 鍛冶屋だというからびっくりした。 その裸のおじさんのワハハ体操にぼくが住んでいたアパートのお婆ちゃんも 加わっていて、部屋は二階のはす向かいだったが変なアパートで、 二階には部屋が五つあって絵描きとホストとお爺ちゃんがそれぞれ一部屋 ずつ借りていた。ぼくは角の部屋で隣はホストだったが、 このホストのお兄さんはとても物静かで、夕方までは物音一つしなかった。 髪こそ染めていて少し長め、色白で物憂げには違いないが、廊下で行き交えば ニッコリ笑ってくれる。それはもう、涼しげな笑顔で切れ長の目、いつも 襟の高いワイシャツにぴっちりしたスラックス姿で、掃き溜めのツルという 印象はあった。絵描きはぼくの向かいの部屋で、よく仲間が泊まり込んで 遅くまで酒飲んで何やら言い合っている声は聞こえたがいつもいた。 つまり、まったく変なアパートで五つの部屋の住人はつねに昼もいたのだ。 そしたらある日、いちばん奥に住んでいたお爺ちゃんが倒れたらしくて 救急車が来て、数日経って戻ったがもう死んでいた。お爺ちゃんの遺体は どういうわけか向かいのワハハのお婆ちゃんの部屋に安置され、 その晩はお通夜になってぼくも知らない振りはできないから10時過ぎに顔を 出してみた。お婆ちゃんはぼくを見るなり「あんたは香典は要らんよ」といい、 「まあ何かの縁だからお酒ぐらい出そうかねえ」という。 それで茶碗に日本酒を出され、「寿司なんて上等なもんはないから」と いいつつ蚕豆や冷やっこのつまみも出された。出前の寿司は大鉢に ちゃんとあったが香典なしの客にはこういうつまみのつもりらしい。 じつに合理的なお婆ちゃんだった。 いったい亡くなったお爺ちゃんとこのお婆ちゃんはどういう関係だったのか、 向かい合った部屋にそれぞれ住んでお爺ちゃんは少し足腰が弱っていたから お婆ちゃんが買い物や用足しを手伝っていたのは知っているが、色恋の 生まれるような雰囲気でもないしかといって赤の他人にも見えない。夫婦なら 一部屋を借りればいいだろうし、階下の郵便受けには苗字違う名札がそれぞれ 張ってあった。 お婆ちゃんはよく、小さなアルミ鍋に入った豆腐を一丁、ぼくに分けてくれた。 夏の夕方、風を通すために墓地に面した窓と4畳半の入り口を開けておく。 ホストのお兄さんを除くどの部屋の住人もそうやっていたから、 コンもトンもなくずいと部屋に入って「食べなよ」というのだが、 そのときかならず「△さんがいいっていうからさ」とお爺ちゃんの名前を 口にした。墓地のまわりには美味しい豆腐屋さんが何軒かあって、 とりわけ好きだったのが初音横丁入り口にあった豆腐屋さんで、お婆ちゃんも いつもそこでそこで買っていたから喜んで戴いた。 「誰かに聞いて知ってると思うけど」弔問客の途切れた部屋でお婆ちゃんは ポツリポツリと話してくれたのだが、それはすべて初めて聞く話で、 亡くなったお爺ちゃんとの数十年に及ぶ縁のあらましを数分間一息に捲し立て、 唖然としているぼくに「いろいろあるんだよ」と初めて見る気弱そうな笑顔を 浮かべてくれた。 初音横丁というのは入り口に古本屋と花屋があって優雅なのだが、 奥に踏み込めば何やら怪しげな雰囲気で、小さな居酒屋が軒を並べている。 ちなみに古本屋でぼくは何度か句集や詩集を売った。こんなのがと 思うような薄っぺらい句集を4千円で買ってもらったことがあって驚いた。 帳場に座ってぼくの差し出す本をパラパラとめくるとき、 主人はいつも書き込みを見つけてはそれを読み、ウンと頷くような笑顔に なった。「勉強してるな」という顔つきで、それがおかしかった。 横丁の奥にTというカウンターだけの居酒屋があって、物静かな女将さんが 芋の煮っ転がしだのカボチャだのカレイの煮付けだの、どこの家でも 食べているような料理を出してくれてそれがとても美味しくて、 ぼくは一日おきくらいに顔を出していた。数人座れば満員のカウンターには 近所の商店のオヤジたちや職人さん、たまにネクタイ姿のサラリーマンも いたが全員の素性は知れていて、混んでくれば先客はさっと勘定を済ませて 立ち上がる約束がいつの間にかできていたから座れないということはなかった。 この女将さんとは浅からぬ縁があって、そもそも知り合ったのが 同じ谷中のべつの居酒屋で、そのときは初老のビシリと決めた男が隣にいた。 A大の先生ということだったが、だいたいあの界隈は焼き鳥屋にも 東大生や芸大生がとぐろ巻いている土地柄だから大学の先生も珍しくない。 その先生は女将に惚れこんでいて所帯を持ちたがっていた。 女将も揺れ動くものはあったらしいが、大学の先生よりじつは大好きな 大工さんがいてその大工さんに娘もなついている、といった話をいったい ぼくをナンだと心得ていたのか、店にいるときとは全然違う子どもっぽい 笑顔を浮かべてケロリとしゃべってくれた。 「わたしもいろいろあるんだよ」って、悪戯っぽく笑いながら。 それから半年もしないうちに女将さんは大工さんと一緒になり、 店も閉めた。翌年のお正月、新しい親子3人が諏訪神社に初詣に来て、 ぼくは電話で呼び出されて墓地向かいの甘味処でケーキをご馳走になった。 女将さんは本当に幸せそうだった。用意していたお年玉を小学校3年生の 娘さんに渡すと、心底嬉しそうに「△さん」とぼくに呼びかけて、 「家族はいいよ。早くいい人見つけて幸せになってね」と言った。 あの当時、ぼくはいったい幾つだったのかと思えば不思議な気がしてくる。 たしか二十代後半だ。いやもう30歳になっていた。 家族どころか自分の親とも連絡を取らなかった。 4年ほど勤めていた会社を何の考えもなく辞めてしまい、 それでも毎晩、下駄履きでカラコロ、坂道や石段を昇ったり降りたりしては 酒を飲んでいた。隣り合わせた職人さんに「ブラブラしててもしょうがねえよ、 下働きの仕事があるから10日ばかり手ェ貸してくんな」とか、商店街の 家具屋の主人から「明日、タンスの配達あるから助手やってくんないか」と声を かけられ、たいていは昼食つき、晩酌つきで5千円くらいの日当は出た。 T大生から「小学生の家庭教師、一日だけ替わってください」と言われて ニセ学生になったこともある。なんの予定も飛び込まない日は、 むしろそういう日が多かったのだが、ホッとして日がな一日、 窓から墓地を眺め、散歩し、顔見知りと行き会えば笑顔で挨拶し、 陽の高いうちにタオル一本ぶら下げて銭湯に出かけ、 風呂上りには買い物客でにぎわう商店街を歩いてコロッケやときには 瓶ビールを奮発し、アパートに戻ればお婆ちゃんから豆腐をもらい、 なんだか町のヒモのようにして暮らしていたような気がする。 けれども、そういう暮らしのなかにも深い穴を覗き込むような不安はあった。 「いつまでもこんなでいいんだろうか」とか、「もう、這い上がれない かもしれないな」という不安だった。その不安とまともに向き合ってしまえば 小心者のぼくはつぶれるしかなかった。かろうじて、そうならなかったのは、 あの町に住む人誰もが、笑顔で向き合ってくれたからだといまになって 気がつく。行き交う人と人が、なんでもないことのように笑顔を交わせる町。 そういう町に住んだおかげで、少し恥ずかしいけど、ぼくなりに暮らしを 慈しむ気持ちを持てたし、自分の殻に閉じこもらずに済んだように思う。 といって、べつに這い上がれたわけではないのだが(笑)、7年住んだ谷中の 町を出るときには「大丈夫、やっていけるよ」とみんなに見送られている ような気がして嬉しかった。 いまの時代に、町は人を見守り包み込んでくれるだろうか。 人は人と笑顔で向き合い、お互いを受け入れることができるのだろうか。 ぼくには答えられない。 ただ、どこに住んでもフラフラと町や川縁を歩き回るクセが抜けないのは、 たぶんどこかで自分も町に包み込まれ、人と笑顔で向き合い、 歩くことでしか目に触れないたくさんのものたちを覚えておきたいと 思うからなのだろう。かつてぼくが、そういう人たちに助けてもらったように。 事実、歩いてみればわかるのだ。町には家の数だけさまざまな暮らしがあり、 暮らす人の数だけさまざまな日々のあることが。 そのことに気がつくだけで、人は自分を一人ぼっちだと思わずに済む。 生きていればきっといいことがあると勇気を取り戻すこともできる。 なんだか年寄りの説教じみた話になってしまった。 先日の凄惨な事件以来、ぼくがずっと考え続けていたのはこの程度のことだ。 森まゆみさんは『谷中スケッチブック』の文庫版あとがきにこう記している。 小さなもの、エラくないもの、古いもの、おろかなもの、匂いや手ざわりの あるもの、そんなものへの愛着がこの本を書かせた。 それはあまりに素朴すぎる感情だと、その後思い知らされたけれど、 今の私にはこんな本は書けないと思う。 森さんが「背に下の子をくくりつけ、上の子の手を引いて、買い物袋に サンダルばきという、どうにもサマにならぬいで立ち」でこの本の取材を したのは1983年からの2年間になる。 それは、ぼくがちょうどこの町を出て行った時期に重なる。 だからいま読むと、路地の猫、夕焼けの鰯雲、石段下の焼鳥の匂い、 墓地の銀杏、あの店この店のおばちゃんたちの声、すべて目の前のことの ように立ち上ってくる。作者にとっても幸せな2年間だったのだろうな。
by northend
| 2008-06-22 18:12
|
ファン申請 |
||